Carol

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買った当時、最後まで読みはしたものの難しすぎてよくわからない、、と思っていたパトリシア・ハイスミスの「キャロル」を3年ぶりに読み直したら、時間があれば常に読みたいと思うぐらいはまり込んでしまい、自分にとってはじめての感覚の読書体験となったので、感想を書いてみる。

批評や分析ができるほどの知識もないし、そもそも感じたことを言語化する能力に乏しいので、広いインターネットの海から奇跡的にこの文章に辿り着いた人がいたら、あまりここから何かを得ようと期待しないでほしい。何も得られず失望しても責任は負わない。

下手な文章の保険はこのくらいにしておく。

 

まず、本よりも先に知っていた、というか本を手に取るきっかけとなった映画版「キャロル」でも予告編に使われるなどして有名なシーンである、クリスマスシーズンのフランケンバーグでテレーズがキャロルに出逢うシーン。映画でもこのシーンはスローモーションだが、原作本でもここはたっぷりページを割いて丁寧に描かれている。キャロルを前にしてテレーズがどういう時間の感じ方をしているのか、キャロルの何に目がいくのか、そのうっとりした、でも息を詰めているその感じが叙事的な文章で書かれている。このシーンに限らず、テレーズの視点から書かれたこの物語は、テレーズだからこそそこに目がいくのだ、という文章が多い。例えば、舞台美術家(映画ではカメラマン)を目指しているテレーズだからこそ、キャロルとの逃避行中訪れるいろいろなホテルやペンション、キャロルの家の内装に必ず目が行く。叙事的ではあるが、そのアンバランスさ、歪みが視点となっている人間に起因している。だからこそ、テレーズの視点からキャロルを読むと、キャロルのことというよりテレーズ自身がよく分かる。最初に読んだ時のわたしは、どちらかというとテレーズに近い年齢だったが、今はキャロルに近い年齢になったからか、テレーズの「19歳」という年齢が、その年齢によるいろんなことがよく分かる。キャロルとの約束のおかげで機嫌がいいそのままリチャードに接する自分勝手さ、コントロールしない感じ、急に嫌になったり親しみを感じたりするジェットコースターみたいな情緒(それには理由があるのだが、他人に説明できないし自分でもはっきりわからない歯痒さも)、、その中で確かなキャロルという存在。テレーズは弱いけど強い、まっすぐで熱くて頑固な子供。大人になりかけていて、その熱に気づいているけど、まだコントロールの方法を知らずに持て余している子供。キャロルがテレーズを愛しはじめたのもわかる、テレーズにはそういう熱による求心力がある。自分でもまだそれに気付いていないところも良い。

冒頭に下手な文章の言い訳として「感じたことを言語化する能力に乏しい」と書いたが、この小説は感情を徹底的に言語化している。抒情的な表現だけでなく、多くは叙事的に。恋愛小説らしく感情の移り変わりを大切に描いている(だからこそ場面の転換がはっきり書かれていないこともあり、それが最初に読んだ時難しいと感じた理由でもあるのだが)のだけど、型に当て嵌めようとしている感じともまた違って、感情が一枚の布なのだとしたら、その一つ一つの糸の網目を見せてもらっている感じがする。その複雑な色の布の重なりが人間を作っている。

初めは映画を見て、そのあと原作本を買って難しいと思い、3年の時を経て原作本を読み直し、また映画を見直した。やっぱり原作本の緻密な感情描写は少し簡略化されているように感じたが、ルーニー・マーラが見事なまでに「テレーズ」そのものだと思った。正直本を読んでいる時も映画の通りケイト・ブランシェットルーニー・マーラでイメージしていたのだが、見返すとルーニー・マーラがもう最高に良かった。あの瞳、熱と弱さと強さがあやうく共存する佇まい、、そして、絵画のようなひとつひとつのシーンが、簡略化されているといえど原作の、ウイスキーのような甘くて強くてクラクラする雰囲気をちゃんと表現していると思った。

 

この「キャロル」は私の本棚に並ぶパトリシア・ハイスミス作の小説の1冊目だ。彼女はもともとサスペンスがヒットした作家で、この「キャロル」はいろいろな出版社に断られ、別名を使って身分を隠して出版したそうだが、諦めずに出版してくれて良かった、、と思った。久しぶりにのめり込むように本を読んで、この感覚を忘れないうちに、と買った「太陽がいっぱい」も最近読み終わったので、その感想も近々書きたい。「キャロル」とはまた全く違う作品だが、共通するところもあり、とても良かった。

文学、というかフィクション全体に対して、役に立つ役に立たないがよく議論になるけど、人それぞれだからそもそもわたしは議論する気がない。が、少なくとも私にとって、フィクションは自分の視点からしか見れない世界の中で、自分自身の感情の解像度をあげてくれるものだ。まだテレーズのように自分でも説明がつかない自分自身を持て余している今、フィクションによって生きることを助けられている。